人の命の重みと付き合い方について考えてみる
久しぶりにこういう自分のプライベートな記事を書いてみる。つい先程、母親から大叔父が亡くなったという連絡を受けた。先日の祖父の法事の時に叔父から、大叔父が危篤であるということは既に聞いていたのである程度の覚悟はできていた。
それでも実際にニュースを知ってしまうと非常に来るものがある。大叔父は俳句に造詣が深く、小中学生の夏休みのときには、長期休暇で課された俳句の課題で提出するものを添削してもらっていた。お陰で今でも、非常に綺麗なものを見たり、感じたりしたときには一句詠んでみるのだが、そんな拙い句を何処かに残してしまうのはお目汚しにしかならないため、いつも脳内で詠んで満足してしまう。何処かに書き溜めておくべきだったのかもしれない。
実際の句は忘れてしまったのだが、高校生の頃のあまりにも印象的で対象的な情景を今でも覚えている。高校3年生になり学年全体で受験意識が高まり自分も受験勉強に励んでいた頃である。いつにもまして憂鬱になりながら自転車を漕いで、田と田の間の道を走っていた。あまりにも気分が下がっているのに対し、その田んぼに生えている稲は青くまっすぐで自分の心情と真逆だった。
こういう情景を文章に起こすときは、筆者の語彙力や技量が問われるものだなぁと感じる。大叔父は非常に語彙が豊富で、17音の中にファミコンのROMのように非常に多くの情報を収めていた。
「ひいばあちゃん あじさい見てきて 103歳」という、私が小学5~6年生のあたりに詠んだ句がある。地域の俳句コンクールでかなり良い賞を貰った。非常に長い年月の中でゆっくりと変化する自然と、それと比較するとあまりにも短い人の寿命に対して、その中でも104年も生きたひいばあちゃんを詠んだ句である。今の自分でも我ながら良い出来だなぁと思う。
自分はどうにも3月が厄月らしい。親戚だけでこの時期に亡くなったのが何人いるのか曖昧なくらい。こういう別れのイベントのときは、どうしても人の命の重みというものを自覚してしまい非常に暗い気持ちになる。2年前の同じ時期、自分が大好きだった祖母が亡くなった時にはあまりのショックに数日学校を休み寝込んでしまった。人の命は平等と言うけれども、結局今の自分は人の命を平等に扱えてはいないように感じる。
自分はよく、人の気持ちを理解しろ、相手の立場になって物事を考えろと幼少期から怒られてきたのだが、命を平等に扱っていないのはその人の気持ちを理解できてないからなのではないか。そもそも、こういう比較のようなものはするべきではないというのは当然の話ではあるが、自分はどうしてもそれを意識しない訳にはいかないようである。
極端な例として見ず知らずの人間の死と身近な人間の死を挙げると、それらを感情的側面において同等に扱うのは非常に難しいことであるが、それこそ本来あるべき姿なのではないかとも思う。と同時に、感情に「あるべき姿」なるものが存在するのかどうかも些か疑問が残る。それでも、見ず知らずの人間の死を真摯に受け止め悲しむことのできる人というのは、やはり美しいものだ。
かといって、自分の感情に嘘をついて喪失感を増幅させようなんていう必要も全くないだろう。比較を行うのではなく、その人に対する感情を最大限受け止めていけばいいのではないかなぁと思う。そういう比較を意識してしまう気持ちこそ変えていかなければならないと思う。